「日本霊異記の世界 説話の森を歩く」

三浦佑之著、角川選書。

「日本霊異記」とは平安時代初期に書かれた日本最古の説話集。
オリジナルを読むのは敷居が高いけど、本書はテーマ別にお話を紹介している上、解説付きでわかりやすく、初心者に向けた入門書といっていいと思います。



「日本霊異記」に記された説話のいくつかは長い年月をかけて形を変え昔話となり、現代まで語り継がれている……。
ということで、一寸法師や浦島太郎の原型のような話も紹介されているんだけど、読みながら「昔話ってどのくらい昔の話なのかなあ」と以前考えていたことを思い出しました。
アニメの「まんが日本昔ばなし」をたまたま大人になって見た時に、おじいさんとおばあさんの生活様式がやたら気になって、「この着物や食事の感じだと江戸時代後期の生活レベルかな。でも江戸時代だと昔話としては新しすぎるから室町時代かな」といった疑問が浮かんだのです。
本書を読んでてそれを思い出して、昔話の時代を特定させようとか野暮の極みだったんだなと気付かされたのですが、アニメで絵がついたからといってその絵に目を向けすぎちゃダメですね。いつの時代も説話や昔話は昔々のお話。同じ話でも平安時代の人間が聞いたなら彼らが想像する登場人物の髪型はみずらとかで、現代人なら江戸時代辺りのちょんまげ。
まあ現代人がみずらスタイルの人達を思い浮かべたっていいんですけどね。日本の昔ということには変わりないんだし。

本書はそういった「時空を越えて昔の人と繋がってる感」が感じられるのがいいです。「日本霊異記」に出てくる人物は主に奈良時代の人間ですが、1300年前でも人間は人間で変わりないと思えるし、庶民感情はやっぱり庶民感情だなと思えるし、怪異伝承とか現代では考えられない不気味話には当時と現代の科学と信仰の違いを感じさせられるし、特に怪異話は超絶ぶっとんでいて、お話としては最高だったりする。

まあ、全体的に説教くさいのがちょっとなあという気はしますが。
話のオチも完全にパターン化されちゃってるようだし。

「日本霊異記」は著者がお坊さんで仏教説話がメインだから、説教くさくなるのはしょうがないんですよね。
良いことをしたら良い報いを受ける、悪いことをしたら悪い報いを受ける。動物は大切に、いじめたり殺したりしちゃいけません等等、本書によるとそういった概念は仏教導入以前の日本にはなかったということで、こういった仏教説話が日本人の道徳心を高め、より文明人として進歩させたというのならば、ここに書かれている説話こそ日本人の道徳心の原点と言っていいのでしょう。

感心するのはその道徳心は今の日本人にも通じるもので、こんな昔の教えを未だに実践してるのがすごいというか、今でも言われる「悪いことをしたらばちが当たる」とか、「ご飯を食べてすぐ横になったら牛になる」とか(これは怠けてると重労働させられる牛に生まれ変わるよという戒めの名残ではないかと思う)、「情けは人のためならず」とか(他人に良い行いをすれば回り回って自分の身に返ってくるの意)、行いと報いの関係って仏教伝来以来1300年か1400年かかけて、徹底的に遺伝子にすり込まれてるのです。
まあ道徳心というより、宗教心?
日本人は無宗教なのではなく、宗教が日常の生活に浸透しているのだと言ってる人がいましたが、八百万(やおよろず)の神々や原始的な先祖崇拝と一緒に仏教もこういった形で日本人に沁み込んでるんだということ、本書を読んでると成る程と思えます。



というわけで、この先は報いについて最近思うことを。
私は宗教については全くの不勉強ですが、いろいろな出来事を合わせて思うところをちょっと書いてみます。








今問題になっている大津の事件の、特にネットの暴走についてですが、「歪んだ正義感」とマスコミが言っているのは、だからちょっと違うんだよなと思います。過激な人がいるのは否定しないけど、多くの人をかきたてているのは正義感というのとはちょっと違うんじゃないか。
義憤もいまいちピンとこない。
もちろん怒りは怒りなんだけど、もっと本能的な嫌悪感からきている気がします。

言うなれば自然の理がないがしろにされてる嫌悪感。
悪い行いには相応の報いが来る。悪いことをして無事ですむなんてありえない。
それは理屈抜きでそういうものであって、日は東から昇って西に沈むのと同じくらいの自然の法則。
因果応報とか輪廻転生とかにもつながる思想で、悪いことをしたら報いを受ける、同じように殺されたり、使役される動物に生まれ変わったりする。ありとあらゆるものはそういった循環の中に生きていて、究極的に人間は公平で平等。
だから人を陥れた人間が怨霊に呪い殺されるということも普通に信じるし、無念の死を遂げた人を後から祀って恨みをチャラにしようと頑張ったりもする。
死刑制度の是非について「殺人を犯したんだから死刑でしょ」と支持する日本人が圧倒的に多いのも、その考え方が絶対的に根底にあって、だから普通の日本人なら普通にこう言う。
「死刑になりたくないなら殺さなきゃいいじゃないか」

まあ、「報い」という考え方はある意味危険で、運悪く不幸になった人を「前世で悪いことをしたからだ。元々悪い人間だからだ」と決め付けるということも残念ながら起こります。
障害を持って生まれた人を昔は「親の因果が子に報い」などと言ったりしましたが、それは完全に誤りだし、それについては科学が進歩してそうではないことを証明できてよかったと思います。
でも、昔からの報いの考え方がなくなることは決してなくて、因果応報は根強く日本人にしみ込んでいる。犯した罪に対する国家の罰が軽すぎるといった法の限界なんかがおもてに現れると、しみ込んだ宗教観も一気におもてに噴き出てくる。

今回の事件の問題は法が全く機能しなかったところ、というより、機能したら罰が発生するから機能させないよう悪事さえなかったことにしようとした、というところにあります。
ネット住民が行っているのは報いを受けさせる以前の、悪事をきちんと悪事として認めさせるというところで、その行動(識者が暴走と呼ぶもの)が収まらないのは、加害者側が未だに自分達の行いを悪事だと認めていないからに尽きる。
認めてないから詳細な犯罪行為と具体的な加害者像をネットは表現し続けざるをえないし、その過程でホントのバカがバカな行為をしでかすということも残念ながら出てくる。
でも悪事が認められなきゃ報いも何もない。

「悪い事をしたら報いを受ける」を理解させるどころか、悪い事が何なのかがわからない原始人のような子供がこの世には存在していて、暴力本能の赴くままに抵抗できない人間を簡単に死に至らしめる。
加害者の人権が声高に叫ばれるけど、あれだけの残虐行為をしておきながら反省も後悔も謝罪もない加害者の扱いが普通の子供と一緒でいいわけないのは明らかで、罪を認めるという人間行為を周囲の大人達は加害者を殴ってでも最初にさせるべきだった。
親と教育者が善悪を教えなくて子供がまともな人間になれるとでも?
この事件の関係者は人間のクズですよ。



というわけで話は最初に戻るんだけど、子供に道徳を教えるのに昔話や説話ってやっぱり必要なんじゃないかと思うわけです。
お寺さんを幼稚園や小学校に呼ぶとか、「まんが日本昔ばなし」を毎週地上波で見れるようにするとか、「水戸黄門」も再開させるとか、いわゆる勧善懲悪ものだけど、悪いことをしたら罰を受ける、下手すりゃ滅びるというメッセージは、幼少期にしっかり教えるべきですね。
親の出来で将来を左右される子供をなるべく減らしていけるように、その辺もっとフォローできるようなシステムは必要かなと思います。
もちろんそれだけでよくなるはずないけど、いじめの犠牲者が増えないために出来ることはなんでもやるという意識は必要かと。
なんにしろ大人が頑張らないといけないと思います。

(後半は怒りが入ってて文章がとっちらかってます。すみません)




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by teri-kan | 2012-07-25 12:23 | | Comments(0)
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