「失われた近代を求めてⅡ 自然主義と呼ばれたもの達」

橋本治著。朝日新聞出版。

「失われた近代を求めてⅠ」の続きです。ツッコミどころ満載の田山花袋再び。

今回主に取り上げられているのは自然主義の代表として田山花袋、島崎藤村、国木田独歩。
独歩はいいですね。とてもまともで安心感が漂ってます。
花袋は「日本人」。ヘンだけど、なんかしみじみ日本人だなあと感じる。
藤村はムチャクチャ。姪を孕ませて外国へ高飛びしたことに「はあ?」なのか、それをダラダラ小説にしちゃうことに「はあ?」なのか、自分でも判別つかないがとにかく無茶苦茶。

花袋がやたら日本人だなあと感じるのは、結局花袋の「蒲団」や作家としてのありようが、後の私小説として日本の主流になっていったからなのかもしれません。
が、本当にそうなのかどうか、自分ではちょっと判断がつかない。
花袋的なものが日本的に感じること自体が正しいのかもわからないし。
ただ、花袋や藤村の、今から考えたら「ナンダコレ」と言いたくなるような作品が、日本文学の成長に欠かせない通過儀礼のようなものだったとするなら、藤村は子供時代に一回かかれば終わりの「はしか」で、花袋はずっと抱えてしまうことになった持病といった感じかな。ちょっと変な例えだけど。

橋本治の説明は相変わらずウネウネしていて、年代すらあっちに行ったりこっちに行ったり。
とにかく細々と説明してくれて、日本文学の自然主義がどういうものなのか、文学史上の名称だけではなく、当時の明治の文壇の空気感から再現してくれてるようでした。
明治という時代の、文章表現しかり書かれる内容しかり、いろいろな面で新旧入り混じっていたカオス状態の当時を理解しなければ、なぜ日本的な自然主義文学が起こったのか、その内実はどういうものだったのか、理解することはできないってことなんでしょう。
実際本書で説明されてる自然主義は得体がしれない。自然主義と言うレッテル貼りはされているが、そのレッテルの貼り方そのものから考察する必要があって、貼り方以前に貼らなければならなかった状況の説明も必要であって、それならレッテル貼られた当の作品はどんなものだ?となると、書いた本人は「自然主義です」とは決して言ってなくて、じゃあ自然主義と言われてるものは実際どういったものなんですか?となると、花袋の変さだったり藤村の無茶苦茶さだったり、「牛の涎(よだれ)」扱いされるようなもので、じゃあ性的なものを書けば自然主義?となると、別にそういったわけでもないんだよねとか、そもそも日本はフランスみたいな宗教的タブーはなかったし、あるがままの人間の描写なんて昔からやってたじゃん、わざわざ真似しなくてもいいじゃん、ていうか真似してかえって混乱してなくね?とか、なんかね、明治の文壇って、ホントのホントにカオスなんですねー。

カオスを説明しようとするから、そりゃあ文章がウネウネにもグルグルにもなる。
でも説明しないと始まらない。
なんていうかなあ、俯瞰でみれば明治の自然主義は、例えばきちんとした紫色なんだけど、近付いてよく目をこらしてみれば、その紫は赤や青や緑や黄色や、さまざまな色の集合から成り立っているんですね。
で、確かに遠くからだと紫に見えるくらいだから赤や青がほとんどなんだけど、かといって例えばそこから黄色を外したら、遠くから見た紫の色は確実に変わってしまうわけで、いくら小さかろうが黄色の存在を無視するわけにはいかないのです。
どんなに小さくてパッと見気付かないような黄色でも、その紫色を説明するには黄色の存在は不可欠で、だから、橋本治は赤や青の説明と同時にその黄色がなぜあるのか、青や赤とどう絡んでいるのか、黄色だけじゃなくて緑も黒も、いちいち説明するのです。だからどうしても細々ウネウネとなる。

……ということなのかなと。
今回いつにもまして読みにくかった(特に前半)部分を思い返して、そんなことを思いました。
なんか今回は我ながら進みが遅かったなー。

でも、面白いことは面白いです。
藤村や花袋を読んでなくてもきちんと説明してくれるし、門外漢でも大丈夫。
今からⅢ巻が待ち遠しいですね。




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by teri-kan | 2013-04-25 11:51 | | Comments(0)
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