「姫神の来歴」その1

髙山貴久子著。新潮社。
普段取り上げられることの少ない櫛名田姫(くしなだひめ)と丹生都姫(にうつひめ)について詳しく考察してる本、ということで読んでみました。

非常に面白いです。
正しいか正しくないかは別にして、誰か漫画にして発表してほしい。
古事記・日本書紀を読んで感じる違和感、疑問、矛盾、古代のロマンと言えば聞こえはいいけどベールをかけられてるかのようなモヤモヤ感。
それらがとてもクリアになります。

かなり大胆で、下手すりゃトンデモ本扱いされかねない危険もあるような内容ですが、それを防いでいるのは著者の探求姿勢ですね。神社の記録等を調べるごとに起こる自らの疑問に対してとても素直です。
仮定に仮定を重ねる手法ではありますが、疑問の持ち方に無理がなく、謙虚なので、そこから導き出される推論もとりあえず受け入れられる。
そして導き出された結論が、全てとは言わないけど、記紀の矛盾を確かに解消する。
しかも「へー面白い推理だねー」で終わってしまうのではなく、更に先にも進める。



というわけで、ここからは細かく感想を。
本文中の神名は漢字表記ですが、大変なのでカタカナでいきます。








著者の病状のせいもあったのでしょうが、最後が駆け足だったのは残念でした。
この人だったらもっときちんと説明できたと思うし、今のままでは最後の部分は同意しかねる。
オオクニヌシの生誕地に関わる出雲と高千穂の関係ですね。
あと「スサノオと異母兄弟だった」ってところ。
父が同じなら記紀であそこまで系図の改竄を行う必要はないので、異母兄弟説はちょっと苦しいかな。
イソタケル(スサノオの子と言われてる神)の正体もだけど、これこそもっと詳しく説明してもらいたかったし、著者の頭の中には十分な考察があったと推察するので、今となってはそれらを知る術がないのが残念です。

ただ、本書で書かれてるスサノオの所業は、古事記におけるとんでもない暴力表現の根拠に十分なりえるもので、非常に納得できます。
古代の人々にとって何百年たっても消えないほど酷い記憶で、ヤマタノオロチ話で正義の人に見せかけても、暴力で人々を苦しめた事実をなかったことにはできなかったってことなんでしょうね。
著者の説でいくなら、スサノオがオオクニヌシを婿イビリする話も、婿イビリではなく王位簒奪が目的だったと考えられるし、オオクニヌシに対して火を放ったエピソードだって、人々の間でずっと悲惨な事実として語り継がれてきた話だったと推測できる。
無視できない伝承だったから史書にも載せざるをえなくて、でもスサノオを簒奪者と書くわけにもいかず、苦肉の策として娘を思う父としての暴力という設定にし、子孫設定も施してみた……と考えてみれば、神話の矛盾は確かにスッキリするんですよね。
悪だと割り切って読めば他の神々の矛盾もそれに伴い解消されるし、本書では神名もかなり整理されるので、いろいろな意味でわかりやすくなります。
著者の説はこれまでの矛盾と疑問を解くカギをいろいろ与えてくれましたね。

まあ検証の余地は残っている上、結論をそのまま丸呑みするわけにはいかないんですけどね。
本書で特定された卑弥呼については、もし彼女が卑弥呼なら鏡をどう扱ったのか疑問が残るし、アマテラスにしても、こういう結論であるなら彼女のシンボルが鏡で良いのだろうかと思ったりします。

ですが、アマテラスが天皇家にとってこのような存在であったのなら、彼女の御神体の扱い方や伊勢神宮の場所設定に神経質になっていた天皇家の事情は大納得です。
草薙剣と同じで、天皇家と敵対していた側の神器だから天皇家に祟るんですよ。
三種の神器という設定も、こうなると由来が非常に怪しくなるんだけど、草薙剣と八咫鏡がそれを持つ者の「王としての正当性」を保証するものなのは間違いなくて、しかしその王とは出雲の王であり、ヤマタノオロチを殺したら偶然草薙剣が手に入ったのではなく、剣を手に入れるためにヤマタノオロチを殺したというのが真実。
出雲王の妻を手に入れようとしたのは、彼女が王権の基盤を支えていたからで、八咫鏡はその象徴。
三種の神器の中で唯一「八尺瓊勾玉」が天皇家に祟らないのは、上記二つが血を流した果てに奪われた物であるのに対して、勾玉は二つが奪われた後に自動的に簒奪者の手に渡ったからと考えることもできたりして、三種の神器だけでもいろいろ想像が膨らむんですね。本書の通りアマテラスを国つ神に戻すだけで、過去に感じていた矛盾がホントに整理されるのです。

ここでは登場しませんが、ニギハヤヒの正体なんて完璧クリアです。
ニギハヤヒがアマテラスから十種の神宝を授かって大和に君臨し、神武の東征によって敗れてしまう件もこれならわかりやすい。
王権の象徴である草薙剣を敵から見せられたりしたら、確かにニギハヤヒとしては王の死と王国陥落を認めるしかないですからね。
ナガスネヒコは頑張ったけどニギハヤヒは諦めてしまったというのも納得だし、何よりニギハヤヒはアマテラスの孫という記紀の記述と、オオクニヌシの子だという播磨国風土記の記述の齟齬が解消される。
更にこの考え方で行くと、神武天皇の皇后はニギハヤヒの娘である可能性が非常に高くなり、であるならばニギハヤヒはイコール「オオモノヌシ」ということになって、ニギハヤヒを祖に持つ物部氏の記紀の記述の少なさも、そんな事情を背景にしていればさもありなんということになる。

二代天皇からの欠史八代の理由は、王の権威が未だ物部氏(出雲王朝の血筋)に寄るところが大きかったからだと考えればいいんですね。事績を書いたら物部氏の記述がやたら多くなってしまうから省略したと。
で、ようやく天皇家が力関係を逆転できたのが十代の崇神天皇の時で、だから崇神朝になっていきなりアマテラスやオオモノヌシが天皇の御世に祟って、必死で祀らなきゃならない羽目になった。
……という風に、考えれば考えるほど次々に想像が膨らんで楽しいんですよねえ。著者の説はホントに面白いんだ。

しかし、事実がそうであるなら、アマテラスは非常に可哀想な神様ということになります。
彼女はもともと出雲の神なのに、「あの国が欲しい」と出雲の国乗っ取りを命令する役目を、創作された神話や捏造された史書によって背負わされてしまうのだから。
簒奪された側なのに、簒奪者の先祖扱いされてしまうのです。子や孫を殺した敵の母親役やら祖母役やらをやらされて。
これほど絶望的な屈辱はないし、死してなお安らかな眠りにつけなかったのはものすごく理解できますよ。
歴代皇女が必死になって祀って、祈りを捧げて、気をつかって気をつかって、なんとか静かに眠ってもらおうと頑張ったという事実は、多分もっと深く考えないといけないんでしょうね。

この本は、そういった姫神たちの悲しさをあぶり出している本です。
クシナダヒメもニウツヒメも、非常に悲しい思いをし、辛い立場に立たされた女性で、彼女達の思いは後々の日本の精神にも影響を与えている……著者が最終的に言いたかったのはそういうことだったのではないかと思います。

というわけで、本書の「おわりに」に書かれてあったゆるしと祈りについて思ったことを次回に書きます。



続く




[PR]
by teri-kan | 2014-08-07 10:37 | | Comments(0)
名前
URL
画像認証
削除用パスワード
<< 「姫神の来歴」その2 「日本神話の論点」 >>