「失われた近代を求めてⅢ 明治二十年代の作家達」

橋本治著。朝日新聞出版。

「Ⅰ 言文一致体の誕生」「Ⅱ 自然主義と呼ばれたもの達」 に続く、「失われた近代を求めて」の第Ⅲ巻にして完結編。
浪漫主義の詩人・評論家だった北村透谷を中心に、明治二十年代の文壇&夏目漱石を解説してくれています。

大変難しいです。
何が難しいかというと、引用されてる透谷の文章が難しい。
読むには読めるが意味を解するのが大変。ていうか正直解せない。
同じ文語体でも小説ならまだなんとかなるけど、評論は難しすぎる。だから橋本治の言いたいことも我ながらあまりよくわかってないような気がする。

だから感想書くのがためらわれるんだけど、ⅠとⅡは書いたのに総論について何も書かないのもなあ……ということで、頑張って書いてみる。








北村透谷。
当たり前ですが(威張ることでもないですが)読んだことありません。名前だけ知ってるといった程度で、こんなにも波乱万丈で濃い人生を送ってる人とは知りませんでした。
人生と言っても25年だけど。
で、この人について細かく詳しく橋本治は書いている。透谷の評論が素晴らしいというより、透谷のありようや考え方が、当時の文壇(というか社会)を表しているから。
江戸時代までの日本を否定し近代の理想を掲げるということの内実が、彼を通してわかるということですね。

Ⅱ巻の自然主義でも書かれてあったことですが、浪漫主義も西洋文学との関係性は自然主義と概ね同じってことでよいのかな?
西洋の自然主義に表現されているありのままの人間の姿は、キリスト教的タブーがなかった日本では既に文化文学の中に普通に存在していた。なのに新たに自然主義な小説を書かなければと試行錯誤しなければならなくなって、結果「牛の涎」的にだらだらと煩悶を垂れ流すものが日本の自然主義文学となった。
同じく輸入されたロマン主義も、江戸時代の戯作に見られるように既にそういったものは日本に存在していた。なので、というかだからこそ日本の浪漫主義はそれほどの発展を見せず、理想(社会的理想と個人的理想)を追うという形に方向性が向かった。
……といった理解でいいのかな?
そんな単純なものでもないですが、橋本治のウネウネ解説をわかりやすくまとめようと思えばそういう感じかなあ。
だらだらと煩悶を垂れ流す自然主義は写生風の言文一致体の完成によって成り立ち、その後の日本文学の本流になる。
浪漫主義はそのまま取り残されて、しかしそれには人物を描くという小説本来の姿があり、これを断絶した過去のものにしてしまったから、その後の日本文学は不幸の道を歩むこととなってしまった。
……という感じ?
全然自信ないけどね!

橋本治曰く、明治イコール青年、江戸イコール少年(こども)とのことですが、少年(こども)と言える江戸時代(前近代)をひきずった小説が、だから当時人気があったというのは、なるほどそうかあという感じであります。
少年の恋を描いた伊藤左千夫の「野菊の墓」、江戸の人達を通して人間を描ききった幸田露伴の「五重塔」。
でも近代人であることを与えられてしまった近代の男性作家は、前近代(少年時代)を振り返ることを許されない。
少年と青年は断絶されて、男性作家は以降とても苦しむ。
多くの作家が自殺してしまう原因はここにあるということですね。

で、橋本治の筆は夏目漱石に向かう。
漱石が今なお大勢の人に読まれる理由でもあると思うけど、漱石が他の作家と違うのは、近代化の波に飲まれた日本の只中で、近代と心の距離をとることができたから。
有り体に言うと、近代のことが全然好きじゃなかったから。
で、終章のタイトルにありますが、「近代が来てどんないいことがあると思っていたのだろうか?」となるわけです。
近代をやり直してみるのもいいんじゃないか、と。

文学の近代をやり直した方がいいと橋本治が言うのは、「そうなのかもしれないなあ」と思いますよねえ。
どうやってやり直すのかという、その方法はさっぱりわからんけど。
明治二十年代の作家と作品の再評価とか?
でも橋本治並みの江戸文学、江戸文化の知識もいるよね。
近代の理解のためには前近代の理解も必要でしょう。
もしかしたら江戸の再評価こそが大事なのかもしれない。



近代は欧州で始まったもので、欧州も近代化に伴い痛みを味わっているけど、近代を受け入れる準備がないまま受け入れた国の悲劇は、あまり悲劇と語られることがないけど悲劇なんですよね。
「近代」は良いもの、「近代化」は良いこと、と思っているから尚更。
これは昔橋本治が書いていたと思うんだけど、欧州の場合は精神面の近代化が先に来て、それが社会や政治体制の変化につながったけど、日本の近代化は政治体制が先で、精神の近代化は後から無理矢理やったって形なのです。
だから精神の表現の最たるものである文学において最も歪みが表れてしまうのは、当然と言えば当然なんですよね。

ここ数年個人的にも近代の正確な評価を知りたいと考えてるんだけど、欧米以外の近代については、日本も含めて難しすぎる問題だと思います。
中東なんて西洋風近代を憎むあまりに中世回帰を宣言する蛮行集団まで出てきましたからね。
日本はあれよりはマシだけど、でも近代化以降いろいろと大変だった。
それを少しでもなんとかできるのは、やっぱり筆の力、ペンの力なのかなあ。
大衆を煽るものではなく、小説とか詩とか、人間を正しく表現してるもの。

橋本治は明治の文学を権威張った中年男の文学という言い方をしていましたが、私にとっては明治時代そのものが権威張った男のイメージでした。
ドラマ「坂の上の雲」の感想でも書いたけど、明治時代は男くさくてインテリくさくて機械くさいイメージ。全然好みじゃないんですよね。
でも男たちは頑張ってたんだなあとは思う。
本書の中でも文学者はみんな頑張ってる。透谷も怒りながら頑張ってる。
その熱さは、今から振り返っても敬意を表すべきもののように思う。

あとがきの最後に当時の出版業界の活況がどれほどのものだったか書いてあるんだけど、橋本治がとても羨んでるように見えて、現在の日本にはそういった熱はないってことなのかなと、勝手に推測しました。
小説を書くという作業そのものに希望を見出してるように感じられたので、どんどん書いてどんどん発表していた当時に思うことは多いのかもしれないなあと。
近代をやり直すというのは、そういうことも含めてるのかな?
当時のように「文学に期待を持つ」ということそのものかもしれません。



とにかく、個人的にとてもタイムリーな本でした。
「明治二十年代」はもしかしたらいろいろとキーになるのかも。
無視してるわけにもいかない時代なんだなあと、ちょっとだけど思いましたです。




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by teri-kan | 2014-11-21 00:01 | | Comments(0)
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