「獣の奏者」 探求編・完結編 その3

前回、前々回の続きの感想です。
内容は、緑の目の民の来し方。

以下は超ネタバレありです。








そもそも緑の目の民って、オファロン王国の一角で、こそこそと闘蛇を戦用に訓練してたんですよね。
一体なんでまたそんなことをしていたのかって話なんだけど、まあとにかくそれがきっかけで彼らはオファロン王国の政治に絡みとられ、例の惨劇を経て、金の瞳の一族ともども山脈に逃げ込むことになります。
で、彼らはこの惨劇を民の教訓とするわけだけど、同じ当事者とはいえ金の瞳の人達と緑の目の民とは惨禍の受け止め方が違っていたように感じます。

金の瞳の一族はジェの暴走が引き起こしたこととして「ほら見ろ言わんこっちゃない」という意識も持ったことでしょう。
だから彼女を追放し、「やっぱり外から来たよそ者の言うことを聞くのはやめよう」とばかりにそのまま谷に隠れ住む。
王獣を使わないことで暮らしは厳しくなりますが、王獣には人知を超えたものがあると思い知らされたからには、今までのようにはとても使えないという気持ちも起こったかもしれません。
まあともかく、金色の瞳の人達については、「残った人々」の現在の生活と合わせても、なぜそういう行動をとったかということが推測することが簡単です。

一方、緑の目の民の方の惨禍の受け止め方は複雑。
人間の感情や欲が暴走することは、故国を追われたりオファロン王国での経験で十分わかっていたでしょうが、獣が完全に人間のコントロールから外れ、際限のない殺戮状態に陥ったことには愕然としたことでしょう。
自分達が昨日まで普通に暮らしていた土地が、王獣と闘蛇と人間の血と肉にまみれ、闘蛇の毒霧に覆われた場所になってしまう。
そんなものを目の当たりにしてしまったなら、そりゃ最終的にはどこにも定住しない放浪の民にもなってしまうかなあと思います。
もともと彼らは遠い彼方からこの地に辿りついた人達。
言ってしまえば既に放浪の民だったわけで、彼らの子孫の多くが現在こういった生活をしていることは納得です。

とまあ、金の人達も緑の人達もここまではいいんだけど、問題はその次。
そこまでの経験をしておいて、なぜまたリョザ神王国において闘蛇軍創設を許すようなことをしたのか。
闘蛇軍を作ったアマスル伯の御先祖は「残った人々」に結構祝福されて谷を送り出されたという話ですからね。
そこがもう思いっきり謎で、あの惨禍の原因に「そもそも闘蛇が戦に使われていたことが悪い」という発想が、どうやら彼らには全くなかったという結論になるしかないんですよ。

人工繁殖さえさせなかったらダイジョーブでしょ、一回敵を撃退したらそれで終わりにすればいいでしょ、くらいの考えだったのかもしれませんが、その後の大公の外国への侵攻は歴史で見る通り。
オファロン王国が闘蛇軍によって内部分裂を起こしたように、リョザも真王領と大公領の対立は内戦寸前まで行きました。
人間というものは闘蛇軍を一度持ってしまったら、大なり小なり支配欲を高められ、その地域のパワーバランスを大きく崩してしまう。そしてそれが崩れてしまったら、事態はエスカレートするしかなくなってしまうのです。

そこまで見通せなかったとは、少なくとも緑の目の民の末裔である「霧の民」に関しては思わないし、やはり彼らの立場ならアマスル伯の御先祖に直接警告するなりなんなりして、闘蛇軍の創設自体をなんとしても阻止するべきだったと思いますね。
そしてそれができなかったのならそれをこそ反省し、闘蛇の生態を明らかにしようとしたエリンや闘蛇軍の増強に走った大公に、もっと謙虚な態度で事情を説明し、惨禍が再び起こらぬよう一族の誇りをかけてでも力を尽くすべきでした。

切羽詰まったら人間は必ず闘蛇軍を欲しがる。
確かにそれで一旦は平穏が築かれる。
しかしそれは大惨禍への第一歩でもある。
緑の目の民とその末裔こそがそれを骨身にしみて知っていたはずなのです。
なのに彼らは闘蛇には甘いんですよね。
「悪いのは銃じゃない、銃を使う人間の問題だ」と言う銃規制反対派のアメリカ人の理屈みたいなんだけど、闘蛇軍自体に彼らはなぜだか甘い。
その変わり使う人間に対してはものすごく厳しい。
結局彼らが過去から得た教訓ってそこなのかなあって感じなのです。
今の彼らって、戒律を守るのが先か、惨禍を防ぐのが先か、ってところがわけわからんことになってるんだけど、彼らの過去の反省の仕方が原因なのかなあと思うしかないんですね。

彼らは本当に過去の出来事を反省した。
自分達のせいで悲劇を起こした、悲劇を起こしたのは自分達であると、心の底から責めて、その思いの強さゆえに自らに厳しい戒律を課した。
戒律は、いうなれば自分達への罰です。それを守らなければ自分達は存在してはいけないというくらいの。
それくらい惨禍に対する彼らの罪悪感は深かったと思います。

とにかくものすごく徹底しています。
もともとストイックな人達なのかもしれませんが、真面目に過去の自分達を反省したからこそ、親子の情より何より戒律を守り続けてきた。
でもそれは一歩間違えれば戒律を守ることが一番の目的になってしまいかねないものでもある。
それさえ守れば人間社会がどうなろうと、はっきりいって惨禍再びってことになろうとも、自分達が再び罪を犯したのでなければ戒律的には善しという理屈を持つことになる。
彼らが反省したのは惨禍が起こったことではなく、自分達が惨禍を起こしたことにあり、彼らの過去の教訓は彼らだけの教訓で、そこから先には広がらない。
彼らの歴史とナソンの言動を見ていると、そういう風に考えられるんです。

彼らだけの教訓を人間全体の教訓に引き上げたのはエリンで、それは別に本人したくてしたわけじゃないから、ナソンがエリンの死を自業自得と切り捨てたのは随分だなあと思うけど、それを行ったのが「霧の民」の血をひくエリンだというのが、おそらく彼には耐え難かったのかもしれないと思います。
実はエリンが「霧の民」の教訓を人間全体の教訓にしたおかげで、「霧の民」はある意味過去から解放されたわけなんですが、あの生活様式を変えるのはすぐには難しいにしても、一族を離れて市井の中で暮らす人はこれから増えていくことでしょう。
過去の教訓からの解放は、罪人からの解放ということですからね。
戒律の意義は次第に薄れ、その緩みから個人の自由が尊重されるようになっていくのではと思います。

しかしそれは「霧の民」にとってアイデンティティの喪失に他ならない。
歴史の罪人であることで存続意義を保っていた民だし、「操者ノ技」を後生大事に継承し続けていたのも、教訓ももちろんあったでしょうが、何よりそれが彼らのアイデンティティの証明に他ならなかったというのも大きかったでしょう。
だって他者に知られて困るものならそんなもの捨ててしまえばよかったのだから。
「残った人々」がそうしたように。
彼らの理屈では「どれだけ恐ろしいものかを知るために技を知る」ってことみたいだったけど、それって技を捨てられない自分達への免罪符だったのではとさえ思いますしね。
存在している限り、どのような形でもそういうものは表に出るものだし、エリンの技だって母の技を見たことが発想のきっかけでしたからね。
封じ込めなんて永遠にできるものじゃないんですよ。

考えれば考えるほど緑の目の民は因果な民で、ソヨンはもとより、エリンもその末裔だったなあと、振り返ってみると納得せざるをえないところがあります。
エリンは戒律から離れて生きることはできたけど、国の監視からは死ぬまで逃れられませんでしたからね。
何かに縛られて生きることを宿命づけられたという意味では、エリンも母ソヨンと同じようなものだったのかもしれないなあと思います。

でもジェシはそういったものとは無縁になりました。
エリンの生涯をかけた戦いのおかげです。
そしてイアルのおかげでもある。
父親が健在だったというのはジェシにとって大きな幸いでした。
エリンも父親が元気でいたなら全く違った人生になっていたはずですからね。
戒律の縛りも、国の監視も、一人で打破するのは無理でも二人なら出来ることもある。
ジェシは孫をイアルに抱かせてあげることができたけれど、これについてはホントにホントに良かったなあと思いますねえ。



というわけで、探求編・完結編の感想はとりあえずここまで。
これから外伝を読む予定です。
ここまで書いた推測憶測についての答えが少しでも描かれていたらいいな。
面白いことを期待!
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by teri-kan | 2015-06-01 00:33 | 本(上橋菜穂子) | Comments(0)
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