牢獄・刑場・墓地ツアー

「三銃士」でボナシューがバスティーユに投獄されて、その後わけもわからず馬車に乗せられどこかへ連れていかれるという、大変気の毒、かつ笑える場面があるのですが、そのボナシューの恐怖の道のりを、古地図を眺めながら辿ってみたいと思います。

またまた前回と同様の地図を使用します。
今回は川の真ん中のシテ島から地図で右に進んだところ、赤と緑の線上にある有名なバスティーユ(La Bastille)が起点になります。
バスティーユは元は要塞ですので、当時は城壁(赤と緑の線)にくっついていました。
すぐ上にあるのがパリに出入りするための東の門、サン・タントワーヌ門(Port S Antoine)。
ダルタニアンが上京した際にくぐった門ですね。







さて、バスティーユにぶち込まれていたボナシューは、夕方遅くになって理由も告げられず馬車に乗せられます。
馬車は囚人を護送するための、窓に格子のついた動く監獄。
ガッチリ施錠され、監視の警官も同乗して、スピードは霊柩車のようにのろのろ。
ろくでもない想像しかできないのは、まあ、仕方ありません。

馬車が向かったのは西で、サン・タントワーヌ通り(Rue S Antoine)を進んだとみられるのですが、出発してほどなくしたところでサン・ポールの広場(S Paul)が見えてきます。
地図で目立ってるロワイヤル広場(Place Royale、現在のボージュ広場)の、道を挟んだちょうど南側。
なんとここは当時処刑場として使われていました。
ボナシューは恐怖におののいてしまうのですが、ありがたや、馬車はそこに止まることなく通りすぎてくれました。

次に現れたのは、国事犯が埋葬されているサン・ジャンの墓地(Cimetie S Jean)。
ボナシューからみて右手側にあります。
古地図にくっきりと書いてあるcimetieはフランス語でまんま「墓地」。
ボナシューはまだ死んでないけど、とても他人事には思えなかったのでしょう。
これまたひどく怯えながら、墓地のそばを通ったのでした。

通りすぎて安心したのも束の間、次に馬車は道を左にとり、なんとセーヌ川に向かって進んでいきます。
このまま行けばそれこそ処刑場として名高いグレーヴ広場に着いてしまいます。
古地図にもGreveの名が見えます。
グレーヴ広場は市庁舎(Hot.de Ville)の西にあり、こちらの地図だととてもわかりやすい。
この地図には市庁舎の絵も載っています(左の下から三番目)。馬車が描かれてますが、もしかしたら今回もあそこを通ったのではないかと思われます。

ここでさすがにボナシューの恐怖は頂点に達しました。もはや騒がずにはいられない。
市庁舎の門を抜け、ぎゃーぎゃー騒いで怒られている間に、なんと馬車はそのまま広場を突っ切って西へ。
ここでもボナシューは命拾いをしました。
が、パリの街中にはまだ処刑場があります。
むしろボナシュー的には次に来るであろう「そこ」が本命。
恐怖は高まるばかり。いよいよ最高潮です。



さて、ここから先のルートは一部わかりません。
サン・トノレ通りへ向かうのですが、行き方が不明。
ボナシュー・ツアーに墓地を加えたければ、現在シャトレ座がある場所に古地図でもシャトレ(Chatelet)の文字が見えますが、その手前で右折し、大きな通り・サン・ドニ通り(Rue S Denis)を北上してサン・イノサン教会(S Inocent)へ向かいましょう。
ここはパリ最大の墓地で、収容の限界をはるかに超える大量の遺体があふれていた所。
死体って腐敗したらガスが発生するけど、ここはその蒸気で空気が妖しく揺らめいていたらしい……。
「三銃士」関連では、従者のプランシェがフロンドの乱の時、イノサン墓地辺りで戦っています。
腐敗臭漂うところで頑張ってたんですねえ。

ツアーに牢獄を加えたければ、シャトレをそのまままっすぐ西へ向かいましょう。
現在のメギッスリー河岸通り(Quay de la Megisserie)の上の通り(サン・ジェルマン・ロクセロワ通り)をセーヌ川沿いに進むと、ポツンと一つ建物が描かれているのが見えてきます。
建物の下に名前があって、赤色と重なってるのもあってちょっと読みにくいのですが、これがフォール・レベック(Fort l'Eveque)。
ちょうどこの頃アトスが入れられていた監獄になります。

フォール・レベックは「司教の城砦」という意味で、もともとパリ司教の裁判権のもとに置かれていた牢獄だったそうです。
1314年の地図を見たら既に存在してて、影も形もないバスティーユよりも実は古い。
どうやらかなり由緒正しい牢獄のようです。

この通りがサン・ジェルマン・ロクセロワ教会(S German de lAuxerois)にぶつかったところで右折し、アルブル・セック通り(R de l'Arbre Sec)を北へ進むと、サン・トノレ通り(R S Honore)という大きな道に突き当たります。
この交差点が、ボナシューがグレーヴ広場を過ぎてからずっと「あそこで処刑されるのだあああ」と恐怖に震えていたクロワ・デュ・トラオワール。
この古地図には地名は書かれていませんが、グーグルマップでFontaine de la Croix-du-Trahoir を確認することができます。
で、ボナシューの言ってた「縁起の悪い十字架」とはこれになります。
道の上にホントに十字架が立ってます。

ボナシューはグレーヴ広場を過ぎてからずっと、「クロワ・デュ・トラオワールだ、あそこへ行くんだ」と恐怖を高めに高めて馬車に揺られてきたのですが、なんとホントに馬車はそこで止まってしまい、哀れボナシューは完全に気を失ってしまいました。
馬車が止まったのは、単に処刑直後で人だかりが出来てたからだったんだけど。
縛り首にされた死体をみんな見物してたんだってさ。
なんというタイミング(笑)。

当時処刑はどの程度の頻度で行われてたんでしょうねえ。
処刑してたところに鉢合わせたボナシューは超タイミングが悪かったのか、それとも鉢合わせることは結構普通にあることなのか、ちょっと気になるところです。
あと、ここは先述のイノサン墓地に近くて、すぐ遺体を運べて便利だなあと一瞬思ったんだけど、処刑された遺体って、もしかして墓地には埋葬してもらえない?
やっぱり郊外にポイッと捨てられて野ざらしだよね……。

結局馬車は人をかきわけかきわけ、なんとかそこを過ぎると、サン・トノレ通りを更に西へ進み、魂を半分冥途に送ったままのボナシューをパレ・ロワイヤル(Plais Royal)まで運んだのでありました。
リシュリュー宅であるパレ・ロワイヤルの手前で馬車は右折、東のボン・ザンファン通り(R des bons Enfans)を通ってから館に入ったとのことですね。
ボナシューの恐怖の旅はここで終わり。
そしてこれからヤツはなんだかイヤなヤツになっていくのでした。



さて、ここでこの地図のちょっとマズイところになるのですが、この古地図は現在との比較ができる大変便利なものですが、なにぶん1716年なので、90年前のボナシュー・ツアーとはちょっと合わないところがあるのです。
特にこのパレ・ロワイヤル界隈。
リシュリューがいた頃は「枢機卿の城館」ということで、パレ・カルディナル(Palais-Cardinal)と呼ばれていたのですが、どうも当時は様子がちょっと違っていたよう。
なので、ボナシューの恐怖ツアーが行われた数年後にあたる1630年の地図をここでご紹介。→ こんな地図。

いやあ、あきらかに城壁の位置が違いますね。
チュイルリー宮殿が城壁の外。
リシュリューの館もサン・トノレ門のすぐ近くです。

この城壁は1636年にルイ13世によって壊され、王は新しく1716年の地図にある赤と緑の線のところに城壁を築いたのでした。
1636年の前と後ではサン・トノレ門の位置も違うということで、ダルタニアンが通った門も第一部と第二部では違うんですね。
フロンドの乱の時、マザランを連れて脱出したサン・トノレ門はこんな門でした。

城壁の歴史を調べたら面白いので止まらなくなるのだけど、この話はここまで。
とにかくボナシューご苦労様でした、といった面白ツアーは、陰惨でおどろおどろしいロマンにあふれるものでした。

パリには他にも中世から有名な処刑場があって、この古地図にもしっかり載っているのですが、それが右上にあるモンフォーコン(Mont faucon)。
大きなPARISの文字の真下にある、山のようなところ。
正確な場所はもうちょっと右で、現在のコロネル・ファビアン広場あたりだそうですが、ここはそれこそおどろおどろしい場所だったみたいです。
一度に40人吊るすことができて、死体は腐り落ちるまでほったらかし、落ちた骨は周りの堀に捨てればOK。
えらく合理的な絞首場&遺体処理施設だったらしい……。

いろいろな小説で有名なところのようですが、「ダルタニャン物語」でも気付いたところでは一か所だけ出てきます。
フーケが口にしてるんですけどね。
モンフォーコン送りになることを危惧するといった感じで。

まあ、パリは恐ろしいところです。
歴史が古いので処刑された人数も莫大です。
今回たどったコースはパリの右岸ですが、さすがこちらは政治の区域。
重要な牢獄や処刑場がたくさんでした。

右岸と左岸は昔から正反対の趣だったのかなあと推測しますが、どちらもパリの一面ということで、楽しい古地図の旅でした。
平面図ではなく1630年の地図でもう一度コースを辿ってみると、また臨場感が増すし、銃士が躍動してるイメージもしやすいです。
いろんな地図を比較すればするだけ発見は増えていきます。
バスティーユを出てすぐのサン・ポールも、地図によってなんか違うし。

パリは資料が充実してていいですね。
旅行者が多いからネット上に写真もふんだんにある。
このように彼らの行動が想像できるというのはありがたいことです。
さすがパリだなあと思った、「古地図で銃士を想像!」の巻でした。




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by teri-kan | 2017-07-26 10:35 | | Comments(0)
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