パリの学生とプレ・オ・クレールの決闘

例の古地図を眺めて以来、パリの成り立ちに興味が向かっているのですが、助けになる良い本はないかと、とりあえず手持ちを探したところ、次の一冊がありました。

「フランス中世歴史散歩」
レジーヌ・ペルヌー、ジョルジュ・ペルヌー著。白水社。

読んだのは随分昔で、内容はきれいさっぱり忘れています。
ほとんど初めて読む感覚でパリに関する部分を再読してみたのだけど、ありました~、今まさに欲しかった情報が。
プレ・オ・クレールという草原が、なぜプレ・オ・クレールと呼ばれるようになったのか、その由来がバッチリ。

せっかくなので記述をそのまま載せさせていただきます。
「三銃士」を読んでる方さえ興味を持ってる方は少ないかもしれませんが、一応さらっとデュマが書いてたことにも、長い歴史があるんだよということで。







『1192年のある日のことサン=ジェルマン=デ=プレの町の男たちに学生が反抗するという有名な乱闘さわぎが起こった。このときもまた学生側に正当性が認められた。それで以後は乱闘のあった場所は大学の所有に帰したのである。そこは聖職者の原っぱ(プレ=オ=クレルク)とよばれるようになり、この名の通りが残っている(パリ七区)。
なぜ聖職者と呼ぶのかというと原則として学生は教会に属するものであり、また当時の教師の世界は、かつての司教区または僧院の持つ学校の延長と見なされていたからである。』



いやー、想像していた以上に古い話でした。
あの名称は学生が正当に戦って実力で勝ち取った名誉の証でもあるのですね。
決闘場の名所と言われると「なんて野蛮な」って思ってしまうけど、やはりそれだけにはおさまらないロマンがあります。

この本には当時の学生の荒ぶる姿も書かれています。
やっぱり血の気の多い若者がごろごろって感じだったみたい。
その部分を抜粋して、またまたご紹介。



『学生は剣をにぎり町中を駆け巡るけんか好きとして知られていた。仲間うちの殴り合いは日常茶飯事であった。
フィリップ尊厳王はこのような指摘をしている。
「学生は騎士よりも果敢である。騎士は確かに武具で身を固めている。片や聖職者(学生を指す)は甲冑も兜もつけず、剃髪姿で刃物をふりかざし、相手に立ち向かう」』



フィリップ尊厳王(フィリップ・オーギュスト)の言葉がいいですね。
実態をよく表しているのではないかと思います。

フィリップ・オーギュスト(在位1180~1223年)はその名の通りフランス史に残る名君で、外交・内政ともに立派な業績を残してるのですが、ここはやはりパリの都市開発、特に大学設立が気になるところです。
先王の時代からパリは大学都市化しつつあったとのことなんですね。

「フランス中世歴史散歩」によると、学生の数はシテ島に住んでるパリ市民よりも多かったそうです。
13世紀に書かれた書物にそういった記述があるのだとか。
評判がよいのでドイツやイギリス、スペイン、イタリアなど、周辺各国から学生が集まるんですね。

そんなわけで、パリ左岸には学生と教師がどんどんやってきたのですが、そうなると発生するのが住宅問題。
教師が一年分の家賃を前払いしてやっと住居を見つけたというくらいだから、貧乏学生がどうしていたかはお察し。
なんと路上生活してたようなんですよー。
路上にたむろする向学心あふれる熱血漢な兄ちゃん達の群れまた群れ。
ううーん、それだけでもう明るくも殺伐とした雰囲気が。

で、そんな事態を目にして驚いたエルサレム巡礼帰りの、とあるロンドン市民が、これはあまりにあんまりだ、ということで1171年に設立したのがコレージュ。
いわゆる寄宿舎です。
以後そんな寄宿舎がたくさんできて、そのうち教授も寄宿舎に出張して講義をするようになって寄宿舎が寄宿学校になって、で、今のフランスの「コレージュ=学校」ということになったのだそう。
ソルボンヌもそんな寄宿舎の一つですね。
ソルボンヌ学寮が設立されたのは1257年です。

ちなみにパリ5区のサン・ジェルマン大通りの北側にガランド通りがありますが、この名前も当時の寄宿舎の名残だとか。
某貴族がガルランド・ブドウ園というブドウ畑を寄宿舎にするため譲渡したというのが名の起こりなのだそうです。
もともとパリの学生たちが集まってたサント・ジュヌヴィエーヴの丘はブドウ畑が多かったようで、ブドウ畑の中にあった家屋がほとんど学生の下宿として使われるようになり、そのうち寄宿舎がぽつぽつと建てられ、バーッと建物で埋められたって感じらしい。

聖女ジュヌヴィエーヴはサン・ドニと並ぶパリの守護聖人ですが、ソルボンヌ大学に図書館として名前が残っていますね。
サン・ドニが王の墓所になり、サント・ジュヌヴィエーヴが学生のお膝元になるというのは、なんだかいかにも中世ヨーロッパだなあと思います。



古くから学生街だった名残が通りの名に現れているのは他にもあって、サン・セブラン教会の南側のパルシュミヌリー通りは、日本語でいうと羊皮紙商通り。
学問に紙は不可欠、というわけで、一帯に羊皮紙を扱う業者がたくさんいたそうです。

ガランド通りと交差するフワール通りは日本語で「麦わら通り」。
干し草の束が語源で、これは学生がその束を座布団にして勉強していたから。
いやあ、うれしくなるほど生活感と学生感にあふれた名前です。
こういうのが当時をリアルに感じられていいんですよねー。

大学は警察不介入の自治が王と約束されてたとか、1244年に学生が自ら立案した規約にはスト権が明記されていて、実際にその権利を行使していたとか、教皇が学生の下宿代を値上げしてはいけないと教書を送ってたとか、おもしろいことがたくさん書かれてます。

もちろん右岸は右岸で楽しいです。
フランク王国時代はもちろん、カペー朝になってから数代も、王はフランス中を移動する人で、いわゆる首都というものはまだ確立されてなかったのだけど、この時期からパリが重い扱いをされるようになり、大がかりな城壁が築かれたり、要塞(ルーブル)が建設されたり、中央市場が作られたり、パリはものすごく発展していきます。

この時代の話は「こうして現代につながる町の基盤が出来ていく」といった感じがわかるので面白いですね。
パリはもっとさかのぼれるし、知りたいことが次々出てきます。
ここまで興味を持てたのって「三銃士」のおかげなので、「三銃士」には感謝かな。
パリは調べ甲斐があります。





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by teri-kan | 2017-08-02 10:26 | | Comments(0)
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