「僕等がいた」その3

もっと歪んだ子に育っても不思議でないような気がするのに、矢野が社交的で好かれる子だというのは、よほど父親の血が濃いからなんでしょう。そんな息子ならそりゃあ母親も可愛がって育てたはずで、でもその愛は息子からしたらなんかどこか変だなと思うようなものだった。

そういう違和感って本人の心の底に静かに静かにとどっていって、矢野が時折見せるあの冷たさになっちゃって、それを思えば七美はよく彼の心を開かせたものですね。

というわけで、なんとか今の矢野を理解し、救う方法はないものか、ちょっと考えてみました。







現在の矢野と山本はなんか妙にお似合いというか、ある意味ピッタリの二人で、この関係の解消は実は非常に難しい。

矢野自身気付いてるんじゃないかと思うけど、矢野という人間に生きる意味を見い出してる女が再び死んだなら、多分矢野の精神はもうもたないんでしょう。彼のパニック障害の原因はおそらくここにあって、だから「パニック障害を助けてもらったから山本と一緒にいる」という理由は実は正しくなく、実際は見捨てた女のその後を想像することに自分の精神が耐えられないから一緒にいる。矢野自身が自分の安定のために山本を必要にしているというのが正しいんです。
しかも母親に認めてもらえなかったという似た境遇、その母親に同じく置いていかれようとしている山本の現状、それらが尚更矢野をがんじがらめにし、一歩も動けなくしている。山本は矢野にとって母を思い起こさせる女であり、同時に自分ともよく似ている女なんです。

そうであるなら矢野が幸せになるためには何より山本が幸せにならなければならないということになるのですが、じゃあ山本の真の幸福は何かとなれば、今となっては矢野に愛されることじゃなく矢野にとらわれている心を矢野から解放してあげることだろう。執着から自由になることしかない。

そのための方法の一つは矢野の母と同じくこの世のしがらみから自分を切り離すという手段だけど、これをやったら矢野も死んじゃうからこれは却下。
別の方法は、山本の存在を認める人が新たに現れて、それが彼女にとって矢野以上に意味のある人物ならばOKって手なんだけど、今んとこ該当するのは母親しかいないんだよね。母親が実は娘をきちんと愛していたということが何らかの形で証明されれば、山本はきっとそれなりに救われるはず。
荒療治としては、七美と山本の対決という方法があります。矢野に対する七美の愛情を山本が理解できて、矢野の幸せを願えるようになっちゃうというパターン。
ただ、これには矢野の相当な頑張りが必要でしょう。

結局、矢野なんですよ。なんだかんだで矢野の意志が全てなんです。
やっぱり優先順位を間違えちゃいけないんですよ。それを間違えれば結局彼自身と、彼を愛する大勢の人が辛い思いをすることになる。矢野は七美と山本が同時に溺れたら、やはり七美を助けるべきで、母への贖罪を母の代理のように山本に対してしようとしても、それは話が違うんです。
だって罪を犯したのは矢野じゃない、母親の方なんだから。

母を死なせたという罪悪感は、自分は母の情念を映し出す形代にすぎなかったという虚しさを埋める作用も果たしていて、その虚しさを直視できないがゆえに矢野の中で絶対必要なものになっている。そしてその罪悪感を抱え続ける限り、彼の中でその共犯者である七美と幸せになるなど絶対に許されない。
七美が矢野のそばにいなければ山本は簡単に彼の中に入っていけて、母と同じ女の浅ましさを嫌というほど矢野に見せ付ける。矢野が心の底ではずっと憎んでもいたであろう母の闇と同じものを持つ山本を、そうであるがゆえに矢野は見捨てられず、しかし山本と一緒にいるという状況は完全に七美への裏切りであり、そういった状態に自分があることそのものも矢野にとっては耐えられない。
だからパニック障害は必然であったけど、矢野にはそれが山本と一緒に住む格好の言い訳となって、結局その言い訳が七美への罪悪感を和らげ、それでなんとか彼は立っていることができる。

現在の矢野を支えているのは自分の虚無を埋める罪悪感と、肉体と精神の苦痛による七美への贖罪で、それが山本の存在によって絶妙なバランスで成り立って、ある意味彼を平穏な世界にとどめることができている。それは激動の時期と比べてあまりに平和で、こういう関係もある意味正しいのかと、時に山本に愛に似たものさえ見い出すくらい、矢野の精神のバランスを保っている。
ただあまりに不毛で、それは矢野だってわかってるんですよね。だから「高橋は強いから」と自己弁護したりする。

普通ならこのまま堕ちていくのが妥当なんだろうと思う。せいぜい山本と傷舐め合いながら生きていくのが関の山で、もしかしたら作者は矢野を死なせるつもりで彼をこういう風に描いていたのかなあとも思う。
でも作者は矢野が救われる道を彼の高校時代に作ってあげているんですよね。彼の心を救ってあげられる女の子を既に彼の人生に登場させてるんだ。

七美にすがって救われたらいいじゃんって、ホントに思いますよ。
母を置いて二人で幸せになろうとしたという意味で、矢野の中では七美は母殺しの共犯者だけど、そんな七美が嫌だっていうんじゃなければ、勇気を出して七美に重荷を分け合ってもらえばいい。
矢野、自分で言ったじゃないですか、「高橋は強い」って。七美の強さをそこまで信じるのなら、彼女に全てをぶつければいい。七美は全て受けとめられる強さを持った子だと信じて勇気を出すべき。出して自分を七美に預ければいい。

母親に自分自身を必要とされていなかった事実にも、七美とならきっと向き合えるでしょう。
母親は息子を憧れた男の代わりとしか見ていなかったとしても、だからといって矢野が矢野として生まれた意味がなくなったわけじゃない。
だって矢野はこれまた自分で言ってたじゃん、「オレは高橋と出逢うために生きてきた」って。既に矢野の存在を肯定してくれる人を矢野は見つけているんですよ。

いやホント、矢野には勇気を出してもらいたいなあ。
今となっては彼の実父が死んでしまっているのが惜しくてね。もしかしたら矢野の苦しみを一番理解できるのは彼の父親かもしれないなあなんて思って、案外父親に「嫌な女からはとことん逃げりゃいーんだよ」とか「一時の気の迷いってもんはあるんだよ」とか言ってもらうのが一番効果があるんじゃないかと思います。
ここまできたら難しく考えずにシンプルに自分の心を見つめるのが矢野には一番必要じゃないかな。

……と、こんなに書いといてなんだけど、仮に七美と矢野がうまくいって、例えば結婚したとしても、矢野は早死にする可能性大なんですよね。母親がガンっぽい症状をみせた時から嫌な気分だったんだけど、実親二人ともがガンで若死にしてるなんて、矢野ちょっと可哀想すぎ。
もうそういう血筋なんだと肝に銘じて、30歳過ぎたらこまめに検診受けるようにして、できるだけ長生きできるように頑張ってもらいたい。今の嵐を乗り越えたら矢野には末永く幸せになってほしいんで、そこんとこ気をつけてほしいな。

こういうこと考えちゃうところが、高校時代からはるか遠いところにきてしまった人間って感じがして我ながら悲しいもんがあるけれど、まあ大人には大人の頑張る生き方があるしね。
矢野も七美も、頑張って今を前向きに生きていってもらいたいものです。
シンプルに自分自身を見つめてもらいたいな。
[PR]
by teri-kan | 2010-09-24 00:36 | 漫画 | Comments(0)
名前
URL
画像認証
削除用パスワード
<< 「さあ 秘密をはじめよう」その1 「僕等がいた」その2 >>